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●ライフセーバー佐藤文机子選手  週刊文春「山崎浩子のアスリート進化論」より
『絶対トップになりたいと言う目標があったから頑張って来れたんですけれど』大学入学直後に始めたライフセービング。佐藤文机子は、ひたすら頂点を目指してきた、3歳から競泳を続けてきた彼女にとって、種目の1つ、ランスイムランはお手の物で、すぐにチャンピオンに。
「自分自身、センスはないと思うけど、人の2,3倍努カをするセンスはあると思う」という彼女は、以来国内敵なしで、大学3年から始めたサーフスキーレース、続いてアイアンマンレース(泳ぎと、パドルボード、サーフスキーで競う花形種目)でも、あっという聞にトップに立った。だが、96年のジャパンサーフカーニバルで3冠(前述の3種目)を獲得したとき、目標が消え、気持ちが途切れていくのを感じていた。
また、周囲からの「あの子は別格。勝って当然」という声を耳にし、かつての「レースで勝つ楽しみ」は、「勝たなきゃいけない苦しみ」に変わっていく。その上、97年にプロに転向し、海外と目本とを転戦する日々が始まったことで、彼女の苦しみは増幅されていくのであった。
「海外での第1戦目は、日本だったら絶対中止になるような波の荒い日で、4mぐらいの波の中でボートにしがみついていたら、バキット左手中指が折れちゃったんです。それで、いつかはレース中に死んでしまうかもしれないという恐怖を感じてしまった。それに外国は凄くレベルが高いし、日本のレースの3倍ぐらいの距離で競うこともあるから、周回遅れとかもして」。怖い。恥ずかしい。つらい。そんな思いが交錯し、レースの度に、「これが終わったらやめよう」と思っていた。追いつめられた彼女は、98年3月から、スポーツドクター辻秀一氏のメンタル指導を受けはじめ、そして言葉の洪水を浴びることになる。
『勝利というのは勝ち続けることでも、守り続けることでもない。そのときの勝者に相応しい者が勝つんだ』勝ちつづけなきゃいけないものだと思っていたのに。
『結果に囚われてはいけない。いかに自分が納得いくレースをできたか、今までよりどれだけ変われたかを見るべきだ』レースの善し悪しは、勝ち負けで判断していたのに。『ライバルを作りなさい。周りの人を応援しなさい』ライバルなんかいなげればいいと思っていたのに。
考え方のすべてを否定され、「ピンとこなかった」が、それらの言葉を素直に受け入れ、実践に務めた。他のスポーツや他の分野で頑張っている人へも本気で応援した。
「そしたら、国内の大会で競り合いになったとき、たくさんの人が応援してくれて、それがすごくカになった。最後は勝てたんですけど、人を応援すれば自分に返って来るんだなって実感しましたね」自分を脅かす存在の選手に対しても、この人がいるから自分も頑張れると思ったらすごく楽しくなってきて」、ドクターの言わんとすることを、徐々に理解始める。
そして昨年の全米選手権。現地につくと、飛行機のコンテナに載せていたサーフスキーが、衝撃か何かで真っ2つに割れていると言うアクシデントに見舞われたが、不思議と焦りはなかった。「代わりの機材を探してスタートラインに立ったんですけれど、そのときはいまの状況で戦える、自分のカのすべてを出せばそれでいいって思えるようになっていたんです」結果は、あくまでも結果。「なるようにしかならない」のだと思うと、肩のカが抜けた。「結局優勝できて、そこで完全に吹っ切れた。それからは心の底から楽しんでレースができるようになりましたね」勝つことに縛られていた彼女はもういない。
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